『日本流ブランドづくり③』  石井淳蔵先生

神戸大学・流通科学大学 名誉教授 

ブランドビジョンは市場インサイトを導く:小林一三のブランディング

ダイエーを創業した中内功さんは、阪急グループを創業した小林一三に憧れ、自身、小林語録を編集し出版しているくらいです。日経の「私の履歴書」では、中内さんが子どもの頃、梅田の阪急百貨店で食べたカレーライスの話も出てきます。そもそも、彼が提唱した「よいものをより安く」のキャッチフレーズは、小林の阪急百貨店のキャッチフレーズを真似たものです。

ここでは、小林一三の夢とその展開をフォローしながら、ブランドビジョンの意義を示します。

「良い物を、より安く、そして心地よく」

阪急電車の歴史は、1907年に箕面有馬電気軌道が設立されたときに始まります。設立後すぐに大阪(梅田)~池田間ならびに池田~宝塚間、および箕面支線の認可申請を行い、そして1910年に開業しました。梅田から石橋そして宝塚へ向かう本線と、石橋から箕面公園に向かう箕面支線が敷かれました。

田舎を走る電車ですので経営的には危ぶまれていて、実際、資金集めにも苦労しました。しかし、小林には成算がありました。沿線に住宅を建てその販売でそれなりに収益をあげることができると踏んでいました。住宅地ができれば、自然と鉄道業の乗客も生まれるので一石二鳥の手でした。資金的には冒険でしたが、うまくいきました。

ただ、小林は儲けや乗客を得るためだけに不動産業を試みたわけではありません。彼には、「庶民に、質の高い生活スタイルを提供したい」という夢がありました。「良い物をより安く、そして心地よく」というビジョンがそれです。

販売に際しては、初めて住宅ローンというものを導入しました。ふつうのサラリーマンでも買えるような価格を設定しました。「心地よく」にも力を注ぎました。分譲地では、道路、水道、電気ガスなどの生活設備を完備したほか、住民のための共同購買所や倶楽部も設けました。当時見られなかった洋風の生活の合理性への憧れがあったのか、分譲した住宅のなかには洋館建ての住宅もありました。

新しいサービスの展開

しかし、住宅だけだと、朝夕の乗客は増えても昼間は閑古鳥が鳴きます。そこでエンタテインメントの世界にも参入しました。宝塚の地に遊園地や宝塚大劇場をつくりました。

小林の関心は「ハード・設備」だけでなく「ソフト・催し物」にも及んでいました。宝塚では宝塚歌劇団の創設、豊中では運動場を設け全国中等学校野球大会の開催、箕面にはユニークな動物園をつくりました。

そうして増えてきた乗客を相手に、小売業や演劇界やホテルにも参入しました。それらの業界への参入の仕方が、また独特なものでした。

当時、それぞれの業界にはすでに業界の雄が存在していました。百貨店なら三越、演劇界なら松竹、ホテルなら帝国ホテルです。小林は、それら当時支配的なビジネスモデルに対抗して、みずからのビジョンにしたがって事業を展開しました。

たとえば、大阪梅田に開業した阪急百貨店ですが、やり方は伝統的な百貨店とは正反対です。以下の図の通りです。

阪急百貨店は、「良い物を安く」のビジョンを徹底させるために、パンや菓子そしてワイシャツなど日用品では、みずから工場をもち製造を行いました。今でいう「サプライチェーンの確立」です。百貨店大食堂で使う牛肉も自前調達しました。当時、阪急が飼育していた牛は8500頭にものぼりました。

その一方で、近隣の小売店で売られる商品は、値引き販売を禁じました。自分の工夫でコストを安くできた商品のみ安売りを認めたのです。

ブランドビジョンは市場インサイトを生み出す

小林一三は、今でいうところのブランドビジョンを掲げたわけです。ブランドビジョンは多様なサービス事業を統合します。また、これまでにない市場インサイトを創造します。そして、「阪急」というひとつのブランドのもとに、事業群が統合され、関連資源が集約・蓄積されました。

この小林一三が試みたブランドづくりですが、市場を細分化し細切れにしていく欧米流のそれとは正反対の志向だと思いませんか。

〈了〉

参考文献

石井淳蔵『進化するブランド』碩学舎(近刊)。